2025.06.02

鬼脇・鬼門

― 利尻島サイクリング記 ―

どうやら、私は転んでアスファルトに頭を打ったらしい。

「死んだかと思った。泡、吹いてるし……」
――誰かの声が、遠くからかすかに聞こえた。

薄い意識の中、大型ダンプの助手席に無理やり押し込まれる。
古びた建物の受付で、震える手で住所を書かされる。
軋むパイプベッドの上ではレントゲンを撮られる。
記憶は、断片的で曖昧だ。
そして、ユースホステルの人が迎えに来てくれた。

ダンプを止めてくれた人がいた。
病院まで付き添ってくれた人がいた。
ユースに連絡してくれた人がいた。

たくさんの「誰か」のおかげで、私は今ここにいる。

診断の結果、幸い大したことはなかった。
けれど、自分の利尻島一周サイクリングは、そこで中断された。
ちょうど半分の地点。

運び込まれたのは――忘れもしない。鬼という名のはいった集落にある鬼脇診療
所。
それ以来、私にとって鬼脇は「鬼門」となった。

あれから四十年。

折りたたみ自転車を持って、再び利尻島へ。
学生の頃に果たせなかった一周を、今度こそ完走するために。

早朝のフェリーを降り、急いでテントを張る。
明日は雨の予報。だから予定を前倒して、今日サイクリングする。
ちょっと遅めのスタートだが、構わない。

新しく整備されたサイクリングロード。
昔泊まったかもしれないユースホステル。
マツコの番組で紹介されていたラーメン屋。

記憶にある場所は、驚くほど少なかった。
けれど、利尻富士だけは、変わらずそこにいた。
どっしりと、静かに、すべてを見守るように。

天気は良し。
ちょっと強めの追い風に背中を押されて、順調に飛ばしていく。

そして、いよいよ鬼脇へ。

鬼脇診療所は、たぶん建て替えられていた。
あの古びた建物はもうない。
記憶と現実の間に、少しだけ距離があった。
そして、鬼脇の集落をすっと抜けてしまう。

拍子抜けするほど、あっけなく鬼門は突破された。
――まあ、そんなもんだ。

残りは、あと25km。

風は相変わらず強い。
けれど、今は向かい風になっている。
そう、ここまでとは逆方向。島は丸いのだから、当然だ。

海沿いの道。
前に進まないペダル。
向かい風がこれほどまでに辛いとは――

そのときの私は、まだ知らなかった。

鬼脇越えても、まだまだ鬼門。
――まあ、そんなもんだ。

(担当:ぺた)